薔薇いちご

日記です!メモです。

平田正代さんを偲んで

昨日、友人から、平田正代さんの訃報のお知らせがありました。

こちらの終の住処が決まったら、平田さんにお葉書を出し、絶対にお会いすることを決めていた一人です。

 

平田正代さんとはおきなわ女性財団で一緒にお仕事をさせていただきました。

彼女は沖縄の無国籍児の問題をサポートしてきた国際福祉相談所のケースワーカーでしたが、

国際福祉相談所の役割が一定の成果を上げて閉所に向かった時に、沖縄県女性総合センターてぃるるの嘱託相談員としてヘッドハンティングされて、てぃるるに来られていました。

 

日本社会で沖縄の無国籍児の存在が社会問題化されたのは1979年の国際児童年です。

1975年国際婦人年の前年に、女性差別撤廃条約の草案が発表され、その批准に向けて日本のフェミニストたちが男女平等の視点で国籍法の父系優先血統主義の改正に動いていた時には、まだ沖縄の無国籍児問題は俎上に上がっていなかったと平田さんは仰っていました。

日本国籍の女性と米国籍の男性の正式な婚姻中に生まれた子どもは「父の国籍を継承する」という旧国籍法によって、沖縄には多数の無国籍児の存在がありました。父親が手続きを怠ったり行方不明になったりした場合、子どもは無国籍のまま放置されていたのです。

平田さんによると、米国籍の男性と結婚した日本人女性が夫と別居中に音信不通になり、やがて新しい男性と交際して妊娠するケースが無国籍児になることが多いとのこと。生まれてきた子どもの出生届を出す際に母親の法律上の夫の名前が父親欄に記載されるので、出生届を出さずに無国籍のまま母親の離婚裁判の結果を待たねばならかったからだと言います。平田さんは家父長制の血統主義に闘いつつ、母親や子どもたちをサポートしてきたのです。

 

私は平田さんが好きでした。平田さんの教養の高さと社会正義を斜めに見ていく視点が好きでした。

平田さんは、60年安保闘争の時には早稲田大学英文学部の学生で、樺美智子の死を聞いた時に沖縄に帰って沖縄のために働こうと決心したと語っていました。

その後、NY州立バッファロー大学社会福祉を学び、無国籍児のために通訳・法的文書の翻訳をして、その知性と感性を無国籍児とその母親の権利回復に捧げた人です。てぃるるで一緒に仕事ができたのは、今考えると幸運です。

私はてぃるるで講座等の企画をしていたのですが、平田さんの訃報を知らせてくれた友人から相談に上がってくる女性問題を聞き、それを解決していくための講座の企画を彼女とよく練っていました。その彼女は相談事業担当で直に平田さんとお仕事をしておりました。

そこで、私たちは、てぃるるの相談事業にフェミニズの視点を取り入れたいということで、前例主義の県の出向職員に事例を提示するために、東京女性財団、愛知県女性総合センター、大阪ドーンセンターを回る出張を起案しました。今思うとかなりハードなスケジュールであり、ハードルの高い起案文書を私はよく頑張って書いたものだと思います。県からの出向職員には嫌味を言われながらでした。出張の道中に私たちは一緒にお風呂を入ったり、名古屋の精神科医加藤さんと居酒屋で飲んだり、時代遅れになったユースホテルに泊まったり、楽しめていました。

沖縄県の出向職員のプライドの高さには驚くことが多々あります。何しろ、てぃるるのイベントの時に平田さんの役割がキーパーを運ぶ役割だったのです。平田さんがその役割を誠実にこなしているのをイベントの挨拶に来られた副知事が発見して、即、平田さんに駆け寄り、県の出向職員を指導しているシーンを私は目撃しました。平田さんはそのイベントの分科会で通訳というポジションでしたが、県の出向職員には非正規雇用としかうつらなかったのです。

まだまだ平田さんとの思い出は語り尽くせませんが、今日は平田さんの告別式とのことで、私は講義と重なって参列できないので、平田さんを偲んでほんの少し思い出話を書いております。