薔薇いちご

日記です!メモです。

常盤平団地

2023年3月1日(水)お天気は晴れ

1988年築の2DKのアパートに引っ越して1ヶ月余り。賃貸料は駐車場・共益費込みで3万6千円、バスターミナルまで2分ということで決定した。住んでみると家のなから海が見える。目の前には農林高等学校の松が見える。駐車場は広い。ベランダは広い。難点は玄関やキッチンが狭いことだ。

アパートに引っ越して思い出したことは、1960年代の団地に、ダイニングキッチンが誕生し、それは画期的なことだったということだ。私が引っ越したアパートにはダイニングテーブルが置けない。トイレのドアの開閉に引っ掛かるのである。

私は、2009年11月に千葉県にある松戸市立博物館を訪問し、千葉県松戸市常盤平団地をフィールドしている。

 

2009年11月 常盤平団地

 

日本社会の大規模な住宅開発事業は1955年から。高度経済成長期からだ。

常盤平団地は1960年に誕生。5,300戸。ひとつのムラだ。1960年代当時の日本においてはダイニングキッチンや洋式トイレがある最先端の団地だった。

松戸市立博物館では常盤平団地を実物大に再現しているダイニングキッチンを観察した。合理的・機能的に収まっている。よくみるとダイニングテーブルの幅が今の標準的なサイズよりも狭い気がする。かつての沖縄社会のどこにでもある学校裏のぜんざい屋のテーブルくらいだ。

でも、なぜこれだけのスペースで料理ができ、食事ができたのか。今の社会はモノが多すぎで、ダイニングテーブルが大きすぎるのか。断捨離すれば可能なのか。いやいや昭和の団地の住人は身体がしなやかで狭いスペースに適応できたのか。疑問は今でも残っている。

 

 

常盤平団地のダイニングキッチンの再現

常盤平団地のダイニングキッチンの写真はネットから借用)

 

常盤平団地をフィールドにしたきっかけは、2005年9月に放送されたNHKスペシャル「ひとり 団地の一室で」だ。その番組によれば、常盤平団地ではここ3年間で21人が孤独死しているという。社会と家族との接点を失っていた人たちだ。

 

2009年11月 常盤平団地

戦後の日本社会は急激な経済成長をした。農業政策に力をおかず企業中心の政策に偏っていたしたがって、地方から労働者としての若者が大量に都市部に流出した。彼らは仕事に慣れると恋愛し、結婚し、家族を持った。そんな彼らにとって団地は夢の住まいであった。

鉄軌道が郊外まで拡張し、職住は遠隔化しても生活は可能であった。それには専業主婦が必要であり、また専業主婦をもつことで男性労働者は長時間労働が可能であった。労働者は終身雇用と年功序列賃金で支えられていたことにより、安定した収入が見込まれた。

 

2009年11月 常盤平団地 郊外

この時代に、夫はサラリーマン、妻は専業主婦もしくはパートタイマー、子どもは二人という家族構成が大衆化する。団地は、戦後の日本社会の大衆の家族を囲い込むムラなのである。その風景を確認したく常盤平団地を歩く。

団地の住人たちはまだコミュニティ意識が高い時代の地方出身だ。孤独死の社会問題を受けて、団地のなかでは関係性づくりが始まっていた。団地の近くの食堂ではランチをしながら、団地住人同士の交流を深める会が催されていた。その食堂の置物は東北のこけしで飾られていた。

 

2009年11月